2016年11月16日水曜日

奈良時代に北海道オホーツク文化圏が近畿律令国家と交流していた可能性

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《備考》

☆阿倍比羅夫 ~ 蝦夷征討・粛慎討伐

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%80%8D%E6%AF%94%E7%BE%85%E5%A4%AB#.E8.9D.A6.E5.A4.B7.E5.BE.81.E8.A8.8E.E3.83.BB.E7.B2.9B.E6.85.8E.E8.A8.8E.E4.BC.90

『日本書紀』によれば、658年に水軍180隻を率いて蝦夷(北海道)を討ち、さらに粛慎(樺太)を平らげた。

粛慎は本来中国の文献上で満州東部に住むツングース系民族(樺太中部以北のはウィルタ)を指すが、阿倍比羅夫に討たれた粛慎と異なるとみられ『日本書紀』がどのような意味でこの語を使用しているのか不明である。

蝦夷以外のオホーツク文化人とも推測され、樺太中部以北に住むニヴフを粛慎の末裔とする説もある。

翌年には再び蝦夷を討って、後方羊蹄(シリベシ)に至り、郡領を任命して帰った。「後方羊蹄(シリベシ)」が現在のどこを指すのかはわかっていないが、江戸時代末期の探検家・松浦武四郎により、北海道の尻別川(アイヌ語で「シリ・ペッ」=上流が至って高い川、山に沿って下る、山の川)流域と推測され、同地は「後志国(しりべしのくに)」、同地の山(アイヌ語で「マッカリ・ヌプリ」)は「後方羊蹄山(しりべしやま)」と名付けられた。

また、幣賄弁島については粛慎の本拠地である樺太とする説や、奥尻島とする説などがある。


斉明天皇4年(658年)4月 - 蝦夷に遠征する。降伏した蝦夷の恩荷を渟代・津軽二郡の郡領に定め、有馬浜で渡島の蝦夷を饗応する。同年、生きているヒグマ2匹とヒグマの皮70枚を献上した。

斉明天皇5年(659年)3月 - 蝦夷国を討つ。阿倍は一つの場所に飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏の蝦夷20人を集めて饗応し禄を与える。後方羊蹄に郡領を置く。粛慎と戦って帰り、虜49人を献じる。

斉明天皇6年(660年)3月 - 粛慎を討つ。比羅夫は、大河のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる。比羅夫は粛慎を幣賄弁島まで追って彼らと戦い、能登馬身龍が戦死するもこれを破る。

斉明天皇6年(660年)5月 - 夷50人余りを献じる。また、粛慎の37人を饗応した。

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